
今日も自由に生きていますか

いよいよ「話が聞ける」人についてです。
これまでの「話が聞けない」人の説明で、なんとなく気づいている方もいるのではないかと思います。
まず「話が聞ける」人は自由です。
イエスマンを期待する人に対しても自由に振舞うことができます。
この「振る舞い」がポイントです。
「話が聞けるか聞けない」かは、この「振る舞い」ができるかどうかの違いなのです。
その「振る舞い」とは・・・、
対話をすること
です。
「話を聞ける」ということは、ただ聞くだけではありません。
相手の話には相手の「考えや思い」が詰まっています。
相手のその「考えや思い」をしっかりと受け止めて、自分の頭で考えて納得しなければなりません。
自分と相手の「考えや思い」が完全に一致することは、よほど単純な場合を除いてはあり得ません。
ということは、相手が話をしてきたらほとんどの場合、対話が発生するのです。
そしてこの対話が長々と続く方が、よりお互いの考えをお互いが理解できるわけです。
ですから、自分か相手のどちらか一方でも「話が聞けない」人がいれば、対話は決して行なわれることがありません。
「話が聞けない」人が多くを占めているので、有益な対話はほぼなされていないかもしれないのです。
いかがでしょうか。
あなたの抱いていた「話が聞ける」についての内容と比べてどうでしたか?
あなたは誰とでも充分な対話ができますか?
そしてあなたのまわりの人はどうですか?
まだまだ続きますよ。
続きは次回です!